ビールについて

About Beer

ビールの歴史

紀元前3500年前、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた国バビロニアで、ビールはすでに重要な役割を演じていました。ヨーロッパでも、石器時代初期の出土品は、今のドイツにあたる地域でビールが作られ、飲まれていた事を示しています。発掘調査によれば、ビールの製造法はほぼ同じです。つまり、焼く前のパンを水に浸しておくと自然に醗酵が始まり、それによってアルコールと炭酸が生じるのです。バビロニアではすでに、デンプンを糖化するのに必要な酵素を得るため、麦芽を用いることも知られていました。古代エジプトではパンからマイシェを作り、その麦芽汁を醗酵させました。当時はまだホップは、知られていません。でもビールの香り付けには色々な香料が用いられていました。
 紀元前から紀元後の変わり目の頃、ヨーロッパでは、ケルト族がアルプスとドナウ川にはさまれた今日のバイエルン地方で、ビールを作っていました。ただ、当時のバイエルンを支配していたローマ人達は、ビールを高く評価してはいません。
 この初期の醗酵飲料が今日のビールへと発展するまでには長い時間がかかりました。ドイツを例にあげて説明しましょう。より早く、より確実に醗酵させることは、醸造過程で酵母を含んだ泡を加えることで解決できました。しかし、本来どんより濁っていたビールを澄ませ、苦味をつけるために、ありとあらゆるものが添加されてきました。例えば、こけもも、杜松(としょう)の実、オークやブナの樹皮、濶葉樹の葉、サルビア、没食子(もつしょくし)等々です。ホップがビールの製造に利用されるようになったのは、ようやく7世紀頃になってからのようです。この当時、ビール作りは修道院で行われていました。もっぱら自家消費用に醸造していたのですが、売ったり、人に贈ったりもしました。中世になると醸造は都市や村へ移っていきます。醸造権を委託したり課税したりすることで、都市や村は良い収入源を確保したのです。
 しかし、国家による法的な規制も怠りありません。ビールの価格や税金が決められました。規制は原料となる麦芽、ホップ、水にまで及びました。例えば、1447年にミュンヘンで公布された布告は、1516年にはバイエルン公国全体に拡大された法律となりました。一般に「バイエルン純粋令(Bayerische Reinheitsgebot)」として知られるこの法律は、ドイツでは今日もなお効力を持っています。この法律は多分、食品に関する法律の中では世界最古のもののひとつです。

ビールの歴史イメージ

ビールの製造方法

ビールの製造方法イメージ

ビールとは、ホップを加えて煮た麦芽エキス溶液を酵母で醗酵させることによって得られる飲み物です。ビール醸造の基本は数百年来、実質的には変わっていません。
 まず大麦を適当な条件のもとで発芽させます。このとき酵素が形成されます。酵素は麦粒の細胞壁を分解し、タンパク質やデンプンやその他の物質を水に溶けやすい形に変えます。約7日の後、緑麦芽は乾燥され、さらに熱を加えて焙燥されます。この段階で麦芽の性格が決まるのです。つまり黒ビール用か普通のビール用かということです。
 次に麦芽は粉砕機にかけて細かく砕かれます。適当な水(醸造水)を加えるとマイシェが出来上がります。一定の温度に保っておくと、麦芽形成の時に始まった分解過程がさらに進み、タンパク質の一部は加水分解によってアミノ酸になります。大麦の大半を占めるデンプンからは醗酵性の糖(大半が麦芽糖)と非醗酵性のデキストリンが出来ます。こうして得られたエキス溶液(麦汁)は、ここで水に溶けない部分(ビール粕)と分解されますが、熱湯を使ってビール粕を洗い出すことによって、エキスはほぼ完全に回収できるのです。この段階で麦芽の酵素は失活します。
 麦汁を冷やし、ろ過すると、酵母の働きで糖が醗酵し始めます。この時アルコールと炭酸が発生しますが、その他の代謝産物としてはアルデヒドや高級アルコール、エステルもできます。下面醗酵と上面醗酵はこの点に違いがあります。下面醗酵だと醗酵は8~10℃で進み、酵母は醗酵が終わって時には底にたまりますが、上面醗酵は15~22℃で、酵母は最後には浮き上がり、表面に集まるのです。後醗酵ないし熟成は4~8週間続きます。この間、残ったエキス分が醗酵を続け、炭酸分が増え、濁りが消えます。
 さて、こうして濁りが消え熟成したビールは、ろ過して樽や瓶や缶に詰められます。保存をきかすためには安定化処理や殺菌が行われます。
 ビールの製造法は多くの国々では法律で決められています。例えば、ドイツではいまなお1516年の「純粋令」が生きているし、日本でも似たような厳しい規則があり、ビールには混ぜ物などありえないのです。

下面醗酵の歴史

下面醗酵を採用する国が増えてきたとはいえ、上面醗酵もまた、いつの時代にも続けられてきました。例えば気温が高く、この醸造法に適している夏だとか、エール、スタウト、ポータ、ヴァイスビール、ヴァイツェンビール、アルトビールなどのように、この醸造法でないと作れない特殊なビールの場合です。
 今日知られている下面醗酵タイプのビールは19世紀に発展を遂げました。ミュンヘンの黒ビール、ドルトムントの淡色でアルコール分が強く、口当りのいいビール、ピルゼンのホップの効いた明るい色のビール、それからウィーンビールやメルツェンビールです。これらのビールが生まれたのは、麦芽の性質、醸造水の硬度や味、ホップの質といった、この地方で取れる原料のおかげでした。これらと並んで、上面醗酵によるビール製造も続けられました。しかし、例えばベルギーのランビックやゴーゼ、ブラウンシュワイクのムンメ、ハノーヴァーのブロイハンなどのように相変わらず自然な醗酵に頼っているビールでした。醸造所の親方が経験を積み、醸造学が次第に進歩したにもかかわらず、出来る製品は一様ではなく、さまざまの要素に影響されました。「パン焼きと酒造りはその日ごとに違う」という格言まで出来たほどです。
 リンデによる冷却機の導入、ビール腐敗汚染菌の顕微鏡による検出、酵母の純粋培養、さらに麦芽生産、醸造、醗酵、熟成などにおける生化学的プロセスの研究を絶えざる前進が、ようやく現代の大量生産への道を開いたのです。このことは、お望みのタイプのビールをいつも同じ品質で十分貯蔵に耐える形で作ることが出来るということです。100年前のように、「冬のビールは質がいいが、夏に仕込んだビールはムラが多くて」というようなことはないのです。

下面醗酵の歴史

日本のビールの歴史

[序 説]

ビールがそれまで日本の酒類のトップであった清酒を抑えて消費第1位となったのは、昭和34年(1959)のこと、それ以後40年間ビールは毎年トップの座を守り成長し続けてきました。それでは、何故ビールはこんなに売れるようになってきたのでしょうか? 清酒のように日本の風土に根付いていないビールは、最初飲む人々に「苦いもの」「味わいがないもの」とあまりいい評判ではありませんでした。しかし徐々に飲まれるビールになっていったことは、やはり麦という世界中で取れる穀類の持つ特性が、自然に日本人いや人間をそうさせていったのではないかと思われます。また、これだけ急速に全国民が飲むようになったは歴史的背景も大きく関係していました。

[ビールとの出会い]

江戸時代鎖国政策下でも日本と交流できた唯一の西欧人であるオランダ人が、ビールを持ち込み、それを蘭学者達が飲んだようです。しかし、この時点での「ビールを飲む」というのは好きで飲むというよりも西欧文明に少しでも接するために飲んでいたと言ったほうが正しいと思われます。つまり、知識を学ぶ為に全てを取り入れた為です。これらの先覚者達は、ビールについて「ことのほかあしきもの」と評価したそうです。つまり、日本にない味わいがビールにあったのでしょう。

[日本初のビール会社]

日本において初めてビールが作られたのは、ノルウェー生まれでアメリカに帰化した醸造技師ウィリアム・コープランド(1832~1902)によって、横浜で製造されました。コープランドは、若い頃ドイツ人技師について5年間醸造を学び、35~36才の時横浜にやって来ました。彼は、そこで「天沼」という清水が湧く池があるのに目をつけて、スプリング・ヴァレー・ブリュワリーという醸造所を建設し、ビール作りを始めました。明治3年のことです。このビールは、横浜に居留する外国人やイギリス軍の駐屯地なども当時あったので、飛ぶように売れていきました。そして、日本人の間でも「天沼のビアザケ」と呼ばれ、大いに親しまれたそうです。

[日本人独自の手で!!]

その頃になると、諸外国から色々なビールが輸入され始め、明治政府も何とか日本人の手でビールを作りたいと考えました。明治4年欧米の文化視察に出た岩倉具視一行は、イギリスを訪問した折にビール工場を見学し、醸造から貯蔵までのプロセスを細部にわたって調べ、日本人の技術で自信を持ってビールを作れると確信しました。帰国後、日本の数ヶ所に官営の醸造所を計画しましたが、そのうち北海道のサッポロ醸造所だけが「札幌冷製麦酒」というラベルのビールの販売にこぎつけました。しかし、十分に成果をあげることが出来ず、その後民間の大倉組に払い下げられ、明治22年「札幌麦酒株式会社」に発展、大日本麦酒の合同劇を経て、今日のサッポロビールに至ったのです。
一方「天沼のビアザケ」はラベルにあるようにバーバリアンビールという本格的なドイツビールを中心に販売していたのですが、経済事情変化などもあり、経営不振となり明治18年(1885年)手放すことになりました。このコープランドの会社は、「ジャパン・ブリュワリー」という会社に引継がれ、明治21年より「キリンビール」というブランドになり、明治屋を通じて販売されるようになりました。
大阪でもビール醸造会社が、明治22年「大阪麦酒株式会社」という名称で設立されました。ブランド名は「アサヒビール」。これは明治17年よりビール醸造をしていた小西儀助氏より商標を譲り受けて付けた名称です。そして、明治25年(1892)販売しましたが、当初は酒屋がなかなか引き受けてくれず、薬屋のチェーン店で販売されました。しかし、この社の優秀な醸造技師生田秀(1858~1906)の技術が認められ順調に売り上げを伸ばしていき、名実ともにビール界に君臨していったのです。
 この頃、この三大ビール会社の他にもう1社、明治20年建立された「日本麦酒株式会社」というのがありました。ブランド名を「大黒ビール」にしたかったのですが、「大黒」は、既に商標登録されていたため、同じ七福神の「恵比寿」から「エビスビール」としました。明治24年苦境に陥りましたが、三井物産重役の馬越恭平氏に再建され、東京地方における絶対的な強い販売力を確立したのです。しかし、明治33年(1900)札幌麦酒が東京に進出し、その地位も少しづつ奪われていきました。一大事と心病した馬越恭平氏は、じっくり根回しした後、農商務相を動かして、「大阪・日本・札幌」の大手三社を統合させるように勧告させたのです。結果「大日本麦酒株式会社」という一大ビール会社が明治39年(1906)9月誕生しました。

[激動そして戦争]

群小のビール会社が出現しては、消えていきました。そんな中で、昭和3年洋酒の寿屋(現サントリー)が「カスケードビール」というブランドを持つ「日英醸造」を買収。昭和5年から「オラガビール」というブランドにて発売されました。この「オラガビール」の命名は、”オラが”宰相と仇名された首相田中義一氏にちなみ大衆浸透をはかってされました。価格も大瓶1本が、他社が33銭のところを25銭まで下げて販売大手ビール会社をたじたじさせたのです。
またこの頃、王冠景品付きビールや、大衆ビールなどで混乱のビール業界も戦争によってますます窮地に立たされるようになりました。原料統制、原料の輸入制限、価格統制、逆にビールの税金値上げそして配給制などビール業者にとっては、自由の効かないことが次々と科せられていきました。そして、会社としてビールを作るというよりも、「お国のため」の色合いが強くなりラベルにもただ「麦酒」と書いただけの単色ラベルに変化していました。また、もう少し戦争が続いていれば、工場などに使ってある金属類も金属回収のため、スクラップ化が迫られていたとも言われています。
昭和20年5月には、大蔵省主税局池田隼人氏より「醗酵したビールを蒸留してアルコールを取れ」「軍関係の燃料にする」「9月でビールの配給制は停止だ」と申し渡されたのですが、8月に敗戦、かろうじてビール工場をアルコール工場に転落させられるのを免れました。
こうやって時代を追っていくと、悪夢の出来事ばかりに思えますが、ビール業界は、この試練を大きく躍進に変えられる運命をも与えられていたのです。それは、ビール原料が米でなく大麦であったので、清酒ほどに直接のダメージがありませんでした。原料のストックがあって原料不足に悩むタイミングがズレたことも良かった要因です。軍用ビールの需要により、ありとあらゆる人々にビールが浸透したこと、家庭用ビールの配給によりビールを口にしたこともなかった人々に、ビール体験をもたらすことが出来たことは、戦争によって日本人の生活に溶け込んでいたといっても言いように思われます。
洋酒の寿屋も昭和3年から9年までしかビールを作らなかったため、戦後のビール会社は大日本とキリンの2社だけとなっていました。そしてアメリカによる「過度経済力集中排除法」に基づき、昭和24年「大日本麦酒」は2分割され「日本麦酒(現サッポロビール)」と「朝日麦酒(現アサヒビール)」となりました。その後再び、サントリーが昭和39年麦酒業界に参入し、近年まで4社による独占となっていました。戦後から現在までに「タカラビール」というビールも発売されましたが、昭和32年10年間販売された後、製造を中止しました。その他に、沖縄に「オリオンビール」が生産されていますが、販売が沖縄県に限られていました。これは、沖縄の産業を守り育てるために保護政策を取っていたためです。酒税の面で、多少本土とは違う税率が適用されています。その特別な条件のためにオリオンビールは本土への出荷をしていないということです。
 色々と日本のビールの歴史をたどってきましたが、日本でもやはりビールにかける人々の声が聞こえてきそうな印象を受けられたのではないでしょうか。素晴らしい人達が、ここまで成長させてくれた日本のビールに乾杯。